
昭和44年高仲成人、榛葉、雅春、山下純一氏らが中心となり北里大学弓道部は創設された。当時、北里大学には、相模原キャンパスは、衛生学部の1学年のみが授業を受けており、他の学部等は、白金で授業を受けていた。
当然、相模原キャンパスには、弓道場と呼ばれるものはなく、高仲、榛葉、山下氏らは、相模原市営弓道場(相模原市役所近く)で週3回の練習に励んでいた。(「檀」創刊号参考)
昭和45年、2代目主将となる初谷秀二、現壇会事務局長黒田彰、堀川知、臼井裕、黒田静夫、安藤史郎、現在も弓を引いておられる小松原茂雄氏らが入部した。白金キャンパスには、弓道場がないため、六本木の弓道場(港区立檜町弓道場)(地下鉄六本木駅下車徒歩約10分。檜町公園内。旧防衛庁舎近く)で練習を重ねていた。
相模原キャンパスでは、相模原キャンパスで授業を受けていた初谷、黒田、堀川氏ら数名の2年生部員が中心となり、現在の武道場の裏(将来は、新体育館あたり)に高さ1m程度の小山を作り、的を1つおいて、練習を行っていた。当時は、林の中である。この小山が北里大学内に出来た最初(初代)の弓道場である。残念ながら、写真はない。

昭和46年、第3期生である百瀬正、大谷長治(後の十和田弓道部第1期性となり、部創設に当たって尽力を尽くした)、青木勝己(3代目主将)のほか、吉田和世、岡田真由美氏等が入部したときは、第1期の道場のみであった。平日の練習は、白百合寮(現、文化会部室)の1階の置いてある巻藁を教養部1階の教室や廊下に運び、机と椅子で作った巻藁台に乗せ、練習を行っていた。当然、1年生であるから、第1期(初代)弓道場(小山)での的前練習はなく、毎週土曜日に六本木の弓道場(港区立檜町弓道場)で的前練習を行っていた。
夏ごろになり、当時の山本弓道部長や管財部長の楢原氏のご尽力により2代目弓道場が出現した。(まさ
に、ぴったりな表現であった。)場所は、相模原キャンパス入り口を左に曲がった一番奥の場所である(現
在の自動車部のガレージあたり)。
残念ながら、屋根はない(北里大学弓道哀歌の一節にある「うちの道場には、屋根がない~~。壁もなければ、床もない」)である。当然、照明もない。あるのは高さ5mほどの大きなあづちであった。しかし、我が弓道部にとっては、はじめて、大学に弓道部の存在を示し、道場の場所を確保した一歩であった。当時の部員たちにとっては、大学構内でしかも毎日、的前練習が出来ることに、歓喜し、奮起したものであった。
射場には、初代師範であられるの鶴谷正一より寄贈していただいた敷石を射場に置き、6人立ちの射場とした。さらに、歴代の卒業生から発電機、倉庫が寄贈された。(照明がないときは、1つの的ごとに懐中電灯で照らし練習を行っていた。倉庫がないときは、毎回、巻藁を上記の白百合寮から運んでいた。弓立ては手作り。)このときから、物を大事にする部風で出来たのである。
この弓道場からは、大谷氏をはじめとして、宮園健二、吉川、佐藤氏をはじめとするの十和田弓道部創始者、渡辺喜久彦、三枝義信、沢田氏をはじめとする三陸弓道部創始者が排出された。

昭和54年、現体育館の裏に3代目弓道場が完成した。(数年後に完成する新体育館の北側)。その25年間にわたり、多くの弓道人を輩出した。

完成時は、OBである壇会を中心として、弓たて、部員札、巻藁台等を弓道備品。高仲成人壇会長からは安土幕、神棚、榛葉雅春氏からは部旗、黒田彰事務局長からは、道場看板など、多くの寄贈がおこなわれた。
なお、初代鶴谷正一師範から寄贈された敷石は、現在も矢道の敷石として利用されている。また、故臼井裕氏ご両親より寄贈された「壇」の木は、道場左手に植樹されている。

その後、弓道部10周年記念や川瀬治之、高柳浩嗣氏が中心となって行った弓道部15周年壇会10年記念等では、試合用胴着や弓巻等のほか、山本一郎弓道部長をはじめとして壇会により弓道場入り口部の増設が行われた。さらに、歴代の卒業生を始めとし、十和田、三陸の諸先輩によって、補修等が行われ、現在にいたっている。
また、山本一郎部長定年退職時には、先生より道場のフローリング加工の寄贈が行われ、本格的な弓道場として整備された。
現在(平成17年)の弓道場写真

